自分の間違いを後悔している人へ

あなたは、間違えた人のことをどう思いますか?

選択を間違えたり、指示を間違えたり、結論を間違えたり・・・

たとえば相手が自分にとってリーダー的存在だったり、自信に満ち溢れて頼もしい存在の人が、ひどい間違いをして、自分がその損害を被ったとしたら。

普通の人は、

「間違えるなんて何をやってるんだ!」

「信頼していたのに、裏切られた!」

「なんて無能な奴なんだ!」

と、次々に非難の気持ちが湧いてくることでしょう。

 

1.間違いを認めることの難しさ

一方で、自分のそういう側面を良く知っている私たちは、もし自分が間違えたとしたら、それを間違いだと認めることができるでしょうか。

普通は間違いなど認めたくないし、「間違えたことを責められる」ことを恐れるあまり、隠蔽したり、事実を曲げて正しいと主張したりしてしまうことさえあります。

とくにここ日本では、一度失敗したら許されない、やり直しがきかないという風潮が文化といえるほど古くから社会を支配してきました。

そんな中で「間違える」ということは、とても恐ろしいことです。

たとえば無能だと思っていた人が、自分の間違いを指摘し、それが真実だったとしたら。

トップ営業マンの間違いを、窓際にいるクビ寸前の同期が指摘したら。

社長の間違いを、入社したばかりの新入社員が指摘したら。

政治家の間違いを、子供が指摘したら。

果たして、その間違いを認めることができるでしょうか?

私も含め、人は正しくありたいと願うものです。

成功したいし、人から信頼されたいし、世の中に良い影響を与え、それを実感したい。

しかし間違えるという行動は、それらの願望を粉々にへし折り、自分がいかに無能で失敗しており、人から信頼されるに値せず、世の中に悪い影響を与えるか(あるいは何の影響も与えることができないか)を思い知らせるのです。

 

2.間違いの本質

このように、間違えるということはひどく惨めで、心を打ちのめすもののように思われていた私ですが、以下の本は少しだけ「そうではない事実」を教えてくれました。

ディール・カーネギー著「道は開ける」

この本には、世に名を遺した偉人たちがいかに自分の間違いを認めて来たかが記されています。

エルバード・ハバード

「だれでも一日に少なくとも五分間は、どうしようもないバカになる。知恵とはその限界を超えない点にあるのだ。」

セオドア・ルーズベルト

私たちが正しくふるまえるのは4回のうちせいぜい3回。ホワイト・ハウスで過ごした日々でさえその程度だったと、彼自身で認めている。

アインシュタイン

自分の結論は回数にすれば九十九パーセントは誤っていた。

 

私はこの本を読んで安堵しました。

こうした名だたる人々でさえ間違いを犯してきたのに、自分が間違いのない完璧な人間であるはずがない。間違えていて普通なのだと。

そして、こうして間違いを犯した偉人達が歴史に名を残すことができたように、自分の間違いを認めるという行為は、自分を貶めたり、再起不能にするところとは真逆にある。むしろ間違いを認めることは、間違いを学びに変える唯一の方法なのだと。

 

3.間違いを認めるということ

かつて一代で世界最大の石鹸製造会社を気づいたE・H・リトルは、まだ石鹸を売り歩く平凡なセールスマンに過ぎなかったとき、石鹸の購入を断られた店に2度、足を運びました。

1度目は石鹸を売るために。

2度目は、以下の言葉を伝えるために。

「私は石鹸を売りつけにきたのではありません。あなたのご批判とご意見をうかがいたいのです。さっき石鹸を売り込もうとしたとき、私がどんなヘマをしたのか、それを教えてください。あなたは私よりもはるかに経験がおありだし、成功していらっしゃるのだから、遠慮なく思いきり批判してください。」

この言葉を聞いて、E・H・リトルが成功しないと思った人間がいるでしょうか。彼は1度目に店を訪れた時よりも明らかに、そして着実に成功に近づいています。

ディール・カーネギー著「道は開ける」では、間違いに関する見解を以下のように括っています。

「自分の犯した愚行を記録しておいて自分自身を批判しよう。私たちは完全無欠を望めないのだからE・H・リトルのやり方を見習おう。偏見がなく、有益で、建設的な批判を進んで求めよう。」

 

私たちは間違いを学びに変える唯一の方法を、今この瞬間から、実践することができるのです。

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